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2008年02月25日

ニュルンベルク裁判とは

偉大な裁判です!

ニュルンベルク裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日?1946年10月1日)。最初で主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal(IMT))と、それに続く12の裁判(Nuremberg Military Tribunals(NMT))で構成。  国際軍事法廷は、全ての検事と判事が、戦勝4カ国だけ(アメリカ、イギリス、ソ連、フランス)で構成されるという中立性を欠いた裁判でありドイツ第三帝国の最重要人物22名を裁いた。 この裁判に続いて、アメリカだけにより主宰された第三帝国のさまざまな機関/人物に対する12の裁判(ニュルンベルク軍事法廷、NMT)が開かれた。

この裁判はナチス党の党大会が開催されていた因縁の街・ニュルンベルクで行われた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者のドイツを裁く」という異例な形式の裁判で、「法廷は法を発見する場所」という、英米法的な「裁判」の考え方を基礎に進行された。そのため、日本やドイツの欧州大陸法的な常識(法の不遡及)からは「法廷による法の創造」が行われた違法な裁判との批判が当時から現在まで根強くある。ニュルンベルクでの先例はあったが、東京裁判ではその違法性をラダ・ビノード・パール判事が指摘した。

ドイツの指導者を裁いたニュルンベルク裁判に対する批判は、日本ではあまり知られていない。戦勝国側が裁いた東京裁判を批判する人も、ドイツを侵略国として断罪したニュルンベルク裁判をそのまま鵜呑みにしている事が多い。 だが東京裁判に問題があるとすれば、その先例かつ模範であったニュルンベルク裁判にも問題があるはずである。

ハーラン・フィスケ・ストーン判事(当時アメリカ最高裁・裁判長でジャクソン判事の上司)は、 雑誌〈フォーチュン〉の記者とのインタビューで次のように答えている 。(ジャクソン判事はニュルンベルク裁判・アメリカ検事団長)

「ニュルンベルク裁判は、戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした。つまり,敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです。しかし私は今でも残念に思いますが、ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした。それは裁判ではなく、戦勝国の政治行動だったというのが,最も正しい言い方でしょう。」

「ニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕、あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、これが私を考え込ませています。私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。」

ニュルンベルク裁判の裁判官がすべてアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ており、裁判の中立性を全く欠いていた事(一方、後発の東京裁判では中立国からも判事が召請されており、中立国インドのパール判事が無罪論を展開したのはよく知られている)や検事側スタッフ(尋問官その他)のなかには、欧州からの亡命者が多く、その為に裁判は「復讐裁判」的な色彩を一層強くしたという指摘もある。ニュルンベルク裁判の判事を勤めたが、裁判の手続きを批判して辞任したチャールズ・F・ウェナストラム(ヴェンナーストラム)判事[1]は、ニュルンベルク裁判における問題点を的確に述べている。

「今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民の事)が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征服者との戦争に負けただけだと確信させたにすぎなかった。証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…また、アメリカ的正義感からすれば嫌悪すべきなのは、検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。控訴権もないことも正義が否定されているとの感を受ける。…ドイツ国民は裁判についての情報をもっと多く受けとるべきであり、ドイツ人被告には国連に控訴する権利を与えるべきである。」
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい裁判だ。。

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2008年01月23日

柿の種

本物の柿の種ってこんなかたちなんですか?

柿の種(かきのたね)は、練ったもち米を細かく切り、表面を醤油などでコーティングして味付けして焼いた菓子(米菓)。名前の由来は、外見が果実の柿の種子に似ていることから。新潟県起源の煎餅菓子の一種。

特に剥きピーナッツと一緒に混ぜられているものは「柿ピー」(かきピー)、「ピー柿」(ピーかき)「ピーピー柿」(ピーピーかき)と呼ばれる。

1923年 - 新潟県長岡市の浪花屋製菓の創業者、今井與三郎が、偶然うっかり踏み潰してしまった煎餅の金型を、元に直せずそのまま使用したところ、歪んだ小判型のあられになってしまったことが始まりとされている。
1955年 - 柿の種にピーナッツが混ぜられ始めた。ピーナッツが混ぜられた理由としては、この当時ピーナッツの需要が伸び悩んでいたという背景があり、売り上げ好調だった柿の種に混ぜてみたところ、消費者に受け容れられて成功した。ただ当初は「ピーナッツの量が多すぎる」という声もあり、調整の末現在のバランスになった。
柿の種は醤油などで味付けされた赤みがかった(着色料も入っているものが多い)ものが最も一般的であるが、近年では、塩だれ、ワサビ、チョコレート、マヨネーズ、青のりなどで味付けされたものもある。

現代でもいわゆる乾きもののおつまみの定番として根強い人気がある。

今ではアメリカなどの他国でも売られている。

一般の煎餅同様、湿気に弱いことから、防湿包装で販売される。古くは缶入りで販売されることが多かったが、現在ではアルミ・ビニールパックの個包装やジッパー付きパックが主流。最近ではペットボトル入りも登場した。

もち米を細かく砕き粉末にしたものを蒸し、よく練って餅にしてから冷蔵庫で冷やして固め、固まった餅を柿の種の原型の大きさに切断する。それをよく乾燥させた後、オーブンで焼いて膨らませ、柿の種の形をつくる。形ができた柿の種の表面に味を付ければ完成する。
(以上、ウィキペディアより引用)

全然違いますよねー。

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2007年11月27日

夜逃げについての悲しい日記

夜逃げといったら悪いイメージしかありません。

夜逃げ(よにげ)とは、夜中にこっそり逃げるように引越しを行うこと。

多くの一般的な「引越し」の行為とは異なり、引越し先や引っ越すこと自体を周囲に公表せずに行うが、この背景には『借金が払えない』『家賃が払えない』等の金銭的な事情や、様々な社会的な事情が絡んでいることが多い。

家財道具等を持って決行する夜逃げもあれば、最低限必要な身の回りの物だけを持って決行する夜逃げもある。

夜逃げ決行日までは普通に振舞うので、夜逃げ後になって初めて周りの人(近所の人、債権者、大家)は引越ししたことを知る。当然、引越しの挨拶はしない。

店主が夜逃げした店舗では、従業員は夜逃げされて初めて店の経営状態を知ることがある。夜逃げされたら、その店舗の従業員は、夜逃げした店主が発見されなければ、夜逃げされるまでに働いていた期間の給料はもらえないし請求のしようもない(ただし、労働基準監督署に相談すれば、未払賃金の立替払制度の適用が受けられる場合もある)。

親が債権者から夜逃げしていた間に出産して出生届が出されていなかった子は、戸籍に載らない未就籍児、未就籍者となる。【ウィキペディアWikipediaより引用】

覚えておきましょうね。

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2007年11月01日

ノトーリアス・B.I.G.の生涯

この人の音楽は好きでした。とっても偉大なシンガーだったんですね。

ノトーリアス・B.I.G.のグラフィティノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G.、本名: Christopher Wallace、1972年5月21日 - 1997年3月9日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン出身のヒップホップMCである。身長190cm、体重136kgの巨漢。愛称はビギー・スモールズ(Biggie Smalles)、単にビギー(Biggie)とも呼ばれる。B.I.G.は「ビー・アイ・ジー」と読むのが正しいが、まれに「ビッグ」と呼ぶラジオDJもいる。


来歴
母ヴォレッタ・ウォレスは保育園の教師。 17歳の頃、クラックコカインディーラーとして働くため、高校を落第してしまう。麻薬の売人時代も彼のカリスマ性からよく知られた存在だった。

ビッグ・ダディ・ケイン(Big Daddy Kane)のDJ、ミスター・シー(Mister Cee)が彼のデモテープを聴き、さらにヒップホップ雑誌『The Source』に紹介。同雑誌コーナー「Unsigned Hype」に登場した事を機にショーン・パフィ・コムズ(現ディディ)に見出される。

メアリー・J・ブライジの「リアル・ラヴ(Real Love)」のリミックス、クレイグ・マック(Craig Mack)の「Flava In Ya Ear」のリミックスなどの客演を経て、B.I.G.名義のデビュー曲「Party And Bullshit」をサウンドトラック『Who's The Man』(1993年)に発表する。

イージー・モー・ビー(Easy Mo Bee)をはじめ、DJプレミア(DJ Premier)、ロード・フィネス(Lord Finesse)、チャッキー・トンプソン(Chucky Thompson)たちのサポートを受け、1994年にデビューアルバム『レディ・トゥ・ダイ』をリリースする。アルバムは名声をビギーにもたらした。 この作品はヒップホップアルバムとして屈指の名作として名高く、現在でも大きな評価を得ている。また当時西海岸が主流だった風流に東海岸の興隆を見せつけた。

アルバムがリリースされる少し前に、ビギーは2パック(2Pac)と交友を深める。1994年にはマディソン・スクエア・ガーデンで2パックと共演もした(前述アルバムのクレジットに2パックの名前を見つけることができる)。しかし、2パックが同年11月に銃撃され、犯人としてビギーとディディを疑ったことにより、彼らの仲は一気に険悪になる。2パックが所属するデス・ロウ・レコードと、ビギーが所属するバッド・ボーイは1990年代の二大ヒップホップレーベルだった。 2パックが銃撃され死亡した際に、敵対するビギーの指示ではとの噂が流れた。ビギーはこれを否定。 その後、今度はビギーがロサンゼルスでヒップホップ雑誌『VIBE』主催の「Soul Train Music Award」パーティーの帰途に撃たれ、セカンドアルバムリリース前の1997年3月9日に死亡する。どちらの銃撃事件もいまだ未解決のままである。一時は公式に捜査が休止されたが、ドキュメンタリー映画「ビギー&トゥパック(Biggie & Tupac)」の2002年公開や、親族の陳情を受け、捜査を再開させる。

ビギーのマネージメント、プロデュースを行っていたディディは、すでに録音を済ませていた2枚組のセカンドアルバム「ライフ・アフター・デス」をリリースする。このアルバムは1000万枚を売り上げ、ビギーを伝説の存在にした。

元妻はR&Bシンガーのフェイス・エバンス(Faith Evans)、リル・キム(Lil' Kim)、チャーリー・バルティモア(Charlie Baltimore)は愛人だったといわれる。

2005年12月、数々のトリビュートアルバムは発表されていたが、公式なアルバムとして豪華客演(ディディ、エミネム、ジェイ・Zほか)を集めた「デュエッツ:ザ・ファイナル・チャプター」がリリースされた。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』